けびん先生の作戦

教育再興戦略/教育経済学/edtech けびん先生 @marumo258844532

#9 こどもにかける言葉をひと工夫

子どものにかける言葉には、コツがあります。

言葉ひとつで、子どもたちの目が一気に輝いたり、持っている力以上のものを発揮できたりします。

 

指導が上手い先生ほど、この言葉の操り方が上手く、いわゆる「のせ上手」です。

 

テレビの名司会者や、お笑い芸人さん、詩人、政治家、ミュージシャンから学ぶところも多いと思います。

 

今回は、子どもに実践する中で、これは上手く伝わったな、うまくノッたなという言葉を紹介します。ぜひ、学校でも家庭でも使ってみて下さい。

 

課題 → ミッション、〇〇大作戦(ドッジボール大作戦。おやつゲット大作戦)

担当 → リーダー、〇〇大臣、◆◆博士、△△王子(はいぜん大臣、虫博士、野菜王子)

問題 → クイズ

正解 → 天才!!

良い → 最高!

上手い → センスある!

不正解 → おしい!(失敗ではない)

成長 → パワーアップ

名前を書く → サインする

意見交換 → 作戦タイム

一位 → チャンピオン

 

など自分がヒーローやヒロインになる系 は、やはりマンガやアニメの主人公のようで、子ども達ものってきます。少し年齢が上になると、王子のようなフィクションよりも、大臣が響くようなところも面白いです。(笑)

 

想像する → 頭のテレビに映す (~について説明するから、頭のテレビに映してね。)

上手くできたこと → エッヘン (〇〇くんのエッヘンを教えて。)

優しい → ふわふわ

厳しい → ちくちく

 

など抽象的な概念をイメージに落とし込む系は、小さい子に説明する時に役に立ちます。

 

 

子どもの頭の中を想像し、同じ感度まで合わせないと、一生懸命話しても伝わりません。

 

子どもに伝わらないのは、子どもが不真面目だからでも、分からないからでもなく、実は思考のギャップだと思います。

 

今回紹介したちょっとしたコツで、同じイメージを頭の中で共有できた瞬間の快感はとても良いものです。

 

子どもの力を引き出し、笑顔が増える手助けになればうれしいです。

#作戦10 国語の授業における「話し合い」のテクニック

今回は国語の授業でよく行われる手だてである、「話し合い」活動について考えたいと思います。

 

「話し合い」とは、講義形式の授業からの脱却、いわゆる「アクティブラーニング」として近年再注目されている授業の一形態ではないでしょうか。

 

しかし、もちろん今までの授業でも子供が話し合う場面はあったと思います。校種によって軽重がありますが、高校よりも中学校、中学校よりも小学校、というように低年齢になればなるほど多いように感じます。

 

ただ、この「話し合い」には落とし穴があります。

▲話し合う相手によっては一方的になってしまい、学び合いではなく押し付けになる

・自分の考えや意見を話すことについて、誰しもが得意なわけではありません。知識量、話すことへの自信、気の強さなどがあまりにも違いすぎると、「話し合う」のではなく一方的な意見の押し付けになる危険性があります。

 

そのため、ともすると片一方だけがたくさん話し、もう一方はだまって聞き役に回ってしまったり、話している方だけがどんどん先に進んでしまったりすることがあります。

 

これはグルーピングの人数(2,3,4人)や机の配置などの方法で多少は吸収できるところもありますが、それでも配慮すべき課題です。

 

 

 

 

では、どうすればよいのか。

 

 

 

それは「質問」です。

 

 

話し合うのではなく、互いに質問し合うのです。

話し合いと何が違うかというと、質問には技術がいりません。質問項目さえあれば、必ず話し合いが成立します。どちらかが一方的に話すということにならず、力量の差が出ないのです。

 

そして、問われた方は必ず考えます。自分が知っていることも知らなかったことも、意図したことも意図しなかったことも、問われて自分を振り返ることで、初めて気づくことも多いのです。これがいわゆる「メタ認知」です。自分の学びを、客観視するのです。

 

問うことで相手の考えを引き出すという手法は、古くは有名なソクラテスの産婆術というのがありました。質問を糸口に会話を続けて、無意識に沈んでいる知を意識の上にのぼらせるのです。

 

また、もう一つの利点として、他人に問いながら自分に問い返す「自己内対話」が進むことが挙げられます。

例えばAさんが「この文の中で一番伝えたいことは何ですか。」とBさんに質問したとします。すると、Aさんは心の中で「きっと〇〇だろうな。」と相手の返答を予想したり、「自分の文では△△なんだけどな。」と自分の文を振り返ったりします。この自己内対話によって、それぞれが自分のレベルでの思考活動を行うことができます。

 

さらに、同じ質問を友達と繰り返すことで、友達の考えを知ることができ、話し合いの良さでもある考えの広がりや深まりも生まれます。

 

 

いかがだったでしょうか。簡単な手法ですが、これ一つで話し合い活動が、個のレベルに応じたものにガラっと変化します。みなさんも、ぜひお試しください。

 

 

 

 

 

 

 

 

#作戦9 動画2.0と世代論と教育

         f:id:kevin-t-a-h-r:20181229231107p:plain

今回は『動画2.0』(明石ガクト著)で提唱されていたIPT(情報密度)という考え方から、学校の授業の情報密度を考えてみます。まずは、情報密度の背景にある、人類ひいては子どもの変化について。

 

1.スマホネイティブという世代?

世代論という考え方は面白い。育った時代の社会の価値観や環境や流行りで、人の思考や感覚や行動も大きく左右される。世代論という言葉が世の中に出てきたのはいつかは分からないが、世代というひとくくりの塊を意識したのは、おそらく戦後の高度経済成長の時代か。

 

自分自身も親世代(20歳から30歳の差)の価値観とのズレを大きく感じるように、子どもも教員の世代と考え方のズレを大きく感じてるのかもしれない。 

今の50代が若い頃、世の大人に「新人類」と表現されたほど、両者の価値観には差異があると思われてきた。その新人類も、今や「ゆとり」や「さとり」世代との価値観の違いに驚いているだろう。いや、もはや新人類だけではない。

 

社会の変化するスピードが速いぶん、世代の区切りが30年、20年、10年と短くなり、もはや5年くらいで感覚が違う世代となっているのかもしれない。少し年齢が違うだけでも、それぞれの世代に隙間があるように感じてならない。

 

同じ10代でもインスタからyoutubeからtiktokまでグラデーションになっており、若くなればなるほど「インスタ?何それ古い。youtube?暇潰しでたまに見るかな。tiktok!みんなちょーやってるよ。」ぐらいのイメージだ。

 

そして、この世代の区切りは、今や単なる年齢の区切りではなく、情報感度による区切りになり、同年齢でも差異が生まれている。「デジタルディバイド情報格差)」などと呼ばれたりすることに近いかもしれない。

 

2.IPTと学校の授業

これを『動画2.0』(明石ガクト著)ではIPT(時間あたりの情報量=情報密度)という概念を提唱し「映像化」と「動画」を軸に、両者の特徴を考察している。

そして、生まれながらにIPTが高い環境に育っている今の子ども達にとって、テレビを始めとする映像メディアは一言で言えば「遅い!そして内容が薄い!」と。youtubeなどの動画メディアは、CMもない(場合によっては広告はあるが)し、CM明けの巻き戻りもない、タメのような分かりきった演出もない。それどころか、視聴者により短い時間でより濃い内容のものを提供しようと、1秒単位で計算され編集されつくされている。さらに、内容が分かり辛い時は巻き戻し、聞き流していい部分は早送りをする、考えたい時は一時停止する。そうして、自分に最適な情報の受け取り方をするのが「動画」だ。

           f:id:kevin-t-a-h-r:20181229231101p:plain          

 

このIPTの視点で学校の授業を考えると非常に辛い。IPTで言えば、ダントツで低いからだ。

全員が同じスピードで、同じ情報量を与えられる。与えられる量もクラスの大多数が理解しきれる量をねらう。しかし、みんな同じというのは幻想で、理解が早い子もいれば、遅い子もいるのが当たり前である。そして授業は、一時停止も、巻き戻しも、早送りもできない。

これはテレビや映像メディアと同じである。結果として若者は「テレビ離れ」しているが、子どもは「授業離れ」などできない。動画メディアに慣れきっている子にとって、このストレスは大きいかもしれない。

 

学校は昭和時代が黄金期のシステムだ。当然今の子どもは教科書の知識を教えられるだけの授業を面白く思えない。ではIPTを高めれば良いかというと、そうもいかない。なぜならこの差は、年齢差ではなく情報感度の差なので、同じ教室にも情報を処理できる子とできない子が生まれる。ではどうするか。

 

3.IPTと授業の改革

私の現時点の考えでは、解決策は2つある。

1つ目は、ハードウェアが揃うならば、アダプティブラーニング(個別化学習)の方向に舵をきり、ソフトにスタディサプリなどのような民間企業を利用することだ。

スタディサプリでは、一人ひとりの学習進度を記録し、成績のデータを解析、フィードバックをしながら次のステップに進む。これは全国の全ての学校で担任の先生がやっていることであるが、どうしても主観が入ってしまったり、そもそも経験によって見立ての技術や指導力に開きが出てしまう。

 

精度を上げようと思ったり、より指導効果を上げようとすれば、そのデータの集計と解析で膨大な時間がかかってしまい現実的ではない。そのため、個々の教員の力量に任されているところである。それをAIというテクノロジーを使って、解決しようというのがスタディサプリだ。

 

実際に私立の多くの高校や渋谷区の小中学校でも導入されている。最新のテクノロジーを使いながら、個別化学習を研究しているし、学校との連携にも慣れている。実績もノウハウも豊富であるならば、協力するのは大いにありなのではないだろうか。

 

もしくは、単元内自由進度学習を取り入れる。この指導方法では、自分で進度を決めて学習できる。また、子どもは自然に教え合ったり助け合ったりする仕組みつくりがある。

 

それは友達同士で教え合うことは、もちろん評価されることであり、教室というコミュニティでの貢献度としてプラスだ。

 

そういう子どもも評価すれば、学力の差が競争や差別とはなりにくいだろう。自分のためにひたすら問題を解いて時間を使うことも、友達に教えてあげるために時間を使うことも、どちらも同じように価値があることだからだ。

 

しかし、単元内自由進度だけでは、おそらく片手落ちだろう。本当に個別化学習として、単元構成や演習や評価までデザインしようとすると、どうしても時間が足りないので現実的ではない。やはりAIの解析のようなテクノロジーが必要だと思う。

 

2つ目は、体験中心の授業である。授業を体験中心の形に舵をきるのだ。学校で得ることのできる「知識」に意味があるのではなく、知識を得ようとするという「行為自体」に意味を見出す。これは「実質」と「機能」を明確に分ける考え方だ。

 

学校教育の知識は教科書をもとに内容が固定化されており、それを分析する企業が同じ内容をかみ砕いて編集し、教材として売り出す。

 

それを与えられた子供は、興味や関心は脇において、とりあえず「そういうもの」として実感のない知識を予習する。そして、分かったつもりになる。

 

もはやこれだけ多くの家庭に予習教材が出回っていると、「学校で新しい知識を得る」なんていうのは幻想であり、前時代の話だということは明白だ。

 

なのでいっそのこと、体験中心の学習にするべきである。本来ならばそれが21世紀の新しい学習のモデルだった。だから「総合的な学習の時間」は新設されたし、ゆとりカリキュラムもつくられたのにも関わらず、結局はテストの点数主義に負けてしまったのが現在である。

 

しかし、もう一度PBLの復興がじわじわと広がっている。ICTを取り入れて学習効率を上げ、生まれた時間で体験中心の課題解決的な学習を行う。実際のアイディアや実践例だってある。

logmi.jp

www.learning-innovation.go.jp

 

 あとは、現場の私たちが決断して挑戦するだけ。一つでも多くの事例を挙げて、発信し教育の未来を変えよう。

新しい人類の子ども達と創る未来はきっと楽しいに違いない。

#作戦8-1 先生から見た不登校 指導体験から見えてきたもの

f:id:kevin-t-a-h-r:20181105110310j:plain

 8月19日に小幡和輝さんの「#不登校は不幸じゃない」というイベントが全国各地でありました。不登校当事者や当事者の家族の方が中心となったイベントは、大きな話題を呼んだことは記憶に新しいです。

 

教員として、不登校児童を担任すると、自分に何ができるのかいつも悩みます。その時の最善を尽くしているつもりですが、それが正解かは分かりません。

 

それでも、これまでの経験から、子どもの気持ちが軽くなったり、家族の方に感謝されたり、教員としてどう受け止めてどう対応していけば良いのか見えてきたことを、数回に分けて書きたいと思います。少しでも自分の経験が誰かの役に立てば幸いです。



1.「不登校はずるいこと?」

結論:不登校は怠けではありません。ずるくないですよ。

 

 不登校というと、登校拒否と呼ばれていた時期もあるように、本人のなまけ=「怠学」と思われていた間違っていた時期もありました。その後、国も現場も不登校者数が増加するに従って、本格的に不登校児への支援を考えるようになりました。それが現場にも浸透し、適切な支援をすること、さらには登校を必ずしも求めないもの、というスタンスにまで変化してきました。

 

ですが、大人も子どもも心のどこかで、

「みんなが行っているもの」、「義務教育だから行かなければいけないもの」

という思い込みがあり、

それが本人や周りを苦しめているということも多く目にしてきました。

 

2.「見えにくい、みんなの心の中」

結論:心の中で思ってる辛さは、実はみんな似ている。誰でもいいから思い切って話してみよう。今は専門機関のサービスも充実している。

 

 不登校の辛さの一つに、その辛さを共有することが難しい、ということがあります。負い目や恥ずかしさや無力感など、様々です。相談できれば心が軽くなり、前向きに進めるとは分かっていてもなかなか言えない。私がこれまで聞いたのは、次のような声でした。

 

①子ども本人

・自分は悪い子だ

・ずる休みと友達に思われている(だろう。かもしれない。はずだ。)

・友達に会いたくない。先生に会いたくない

・「明日からはいけるよ」

・行きたい気持ちはあるけど、朝になると起きられない

 

 「みんなができていることができない」「今までできていたことができない」と、自分を責めたり、無力に感じたり、親に申し訳ないと考えたり、子どもの自己肯定感が大きく低下していました。その結果、人の目を気にして昼間や休日は外出できなくなったり、公園やスーパーなど以前行っていた場所に行けなくなってしまったり、登下校の時間を嫌がったりします。また、本人の口から「明日からはいけるよ」「もう大丈夫」という言葉が出ても、いざ次の日の朝になると起きられなくなる。これは本当に良くあることで、本人は嘘をついているわけでも、その場しのぎで機嫌をとろうとしているわけでもありません。どれもその時の本当の気持ちを話しています。「行きたくても(行かなきゃと思っているけど)行けない。」これもまた真実だと思います。まずはこの気持ちを受け止め、上手くいかなくても叱らず、見守るよう保護者の方にも話しました。

 

②保護者

・なぜうちの子が

・甘やかしてはいけない?

・無理やりにでも連れていくべき?

・家族になんて伝えよう

・先生に何て言おう

・この先どうしたらよいのだろう。

 

 保護者の方も同じように、なぜという思いと、この先どうしたら良いかという不安でいっぱいになっていました。もしくは、行きなさいと言って無理にでも連れていくべきかどうか、行かなくても良いと言って本人の希望を尊重すべきかどうか、という葛藤を感じる人も多いです。家族には何て相談しようか、担任の先生には何て伝えたら良いのか。何から手を付けたら良いのか分からないという状態で悩んでいました。また、

「友達にも話しづらくて、家族以外に言えない。」

「家族に言ったら、子どもが怒られるだけだから、なかなか言い出せなかった。」

「自分の子どもだけ余計に見てもらうと思うと、先生に言うのが申し訳ない。」

という気持ちがあり、誰かと共有したいけど、なかなか一歩踏み出せないというところに苦しさを感じていました。それが閉塞感につながると、本人も苦しくなってしまいます。教員や家族の方は、何かを察したらすぐに声をかけて、一緒に考えるチームになることが大切だと思います。

 

③教員

・その子にこれからどう関わったら良いだろう

・自分が何かしたかな?

・友達と何かもめたかな?

・保護者になんて話をしよう

・クラスになんて言おう

・ほかの子の指導をどうしよう

 

 一人の子どもの苦しさに寄り添いたい気持ちと、どうしたら良いのか分からない気持ちとが混在します。また、一方でクラスの他の子ども達も十分に見てあげながら、対応していく必要があります。「自分が解決してやる!」という熱い気持ちは、子どもが望んでいない限り逆効果です。不登校は問題行動などではなく、心の休憩が必要な時期であることを十分理解し、本人や家族と丁寧にじっくり向き合うことが必要です。大切なのは、チームで対応することです。本人や家族や自分に関わる大人が多ければ多いほど、思いを共有できたり、アイディアが浮かんだり、その子に関わらなくても他の面でサポートしてくれたり、と良いことづくめです。保護者や同僚や管理職には積極的にコミュニケーションをとるようにすると上手くいくことが多いです。

 

 

3、おわりに

今回は、なかなか見えにくい気持ちの面について書いてみました。あくまで、自分の経験から考える一例ですが、少しでも誰かの力になれば幸いです。

 

#作戦7 教育界の改革者と真夏の大激論会

f:id:kevin-t-a-h-r:20180919223823j:plain

 

 1.スクールプラットフォームとは

www.schoolplatform.org

 

文部科学省の若手官僚が、全国の「改革者」と評される教育長や校長のつながる場をつくろうと2018年3月に始めたものです。

 

発起人や世話人には、大学の先生からメディアで話題の校長などそうそうたるメンバーがそろっており、教育界のオールジャパンとも呼ばれました。

 

今回は9月に行われた「大激論会」に参加してきたので、そこで感じたことを書きたいと思います。

 

 

2.全国の教育課題は様々。自分の自治体は?

 

まずは、参加者の校長・教育長から、課題の発表と議論の方向性についての簡単なプレゼンがあり、その後テーブルごとに議論をするという流れでした。

 

全国から集まった校長、教育長は魅力的な人だらけでした。当たり前かもしれないけど、どの人も熱意に溢れ、改革を模索し、実際に行動に移していました。

 

そして、プレゼンを聞いていると、地方によって課題が違いすぎて、文科省が一つの役所で全体の政策を決める今のシステムは、今後ますます機能しなくなるなと思いました。

 

ある学校では、いかに最先端のテクノロジーを使って、学習者・教員・保護者にとっての学校という存在を変えていくか、を全力で考えている。

 

他方では、過疎化していく地域を再興させるためのコミュニティーとして、学校を中核にし、地域の力を集結させて教育を進める方法を考えている。

 

また、一方では新時代を生きるための学力としての能力開発を重点的に考えている。

 

など、地域性や校種や教育長らの考えによって、向いている方向が違いました。

それは決して悪い意味ではなく、どの人にも共通しているのは「今のままではダメだ。教育を改革しなければいけない」という強い志に突き動かされているもので、どの自治体の取り組みも応援したいと思いました。

 

そして、自分の自治体での課題をもっと深堀りして見つめ直さなければいけないなと思いました。

 

自分は、子どもに最新の情報に触れさせたり、社会の転換点にあることを教えたり、未来について考えたり、今できることを精一杯考えさせたい。そして、遠慮とか、慣例とか、気合と根性とか、年功序列とか、みんな一緒とか、共同幻想とかは、ほどほどに捨てたい。一言でいうとアップデートしたい。と思っていた。

 

けど独りよがりではいけなくて、人の気持ちを動かすには、やっぱり人の気持ちを知らなきゃいけないし、行動で示さなきゃいけないし、会話して納得して仲間を増やさなきゃいけない。

 

そのためには、自治体の目指す方向や保護者の願いを知る必要があると、心から思った。

 

3.教育長が無敵なわけではない

自分が参加したトーキングテーブルのホストは、国の会議にも数多く出席し、メディアでも度々取り上げられている、超有名な教育長でした。

教育長に就任してわずか3年ながら、次々に改革を推し進め、教育界に革命を起こしていると言っても過言ではない人で、たった2分の短いプレゼンを聞いただけでも「この人の話をもっと聞きたい!」と思える人でした。

 

そんな雲の上のような存在の教育長と、大学の先生、研究者、企業の方と学校にAIやテクノロジーの導入を進めるにはどうしたらよいか、どのような未来になるのかを話し合いました。

 

学習者のログを集めて、解析し、フィードバックすることで自己学習力を高めることや、

授業名人と言われる先生の授業をデータ化して解析し、そのスキルを教員研修として継承すること、

脳波の測定を通して、子ども達の授業に対する興味や知的興奮を解析して、授業作りをすること、

 

など、刺激的な話に溢れていました。

教育界の世代交代が進むことはメリットとデメリットがあります。藤原和博氏は「教育界の地盤沈下だ」とその危機感を表し、スキルの継承や地域の教育力を生かした組織つくりを提唱しました。それが今から10年以上前です。私は実際に和田中の校長時代の藤原氏の授業を受け(いま考えると本当にラッキー)その話を聞きましたが、10年後の今もその危機感は同じまま。むしろ現場では、そのひずみが生まれているようにさえ思います。

この圧倒的な不利さを超える鍵が、テクノロジーだと私は思いますし、このテーブルのみなさんも立場は違えど同じく考えていました。

 

しかし、その教育長はどこか悩んでいます。教育長という教育行政のトップであり、先進的な考えをもち、国の教育改革にも意見を述べられるほどの実力があります、それなのに改革を進めるのは難しいと。

 

なぜならば、「現場の中にも反対があるから。」

 

新しいことをしようとすると、これまでのやり方を変えることへの、拒否反応や反発が必ずある。パソコン一つでさえ、覚えるのを嫌がる人もいる世界。大変かもしれないが、そこにかけるコストが、子どもの力になったり業務の効率化につながったり、保護者の願いに叶うものになる可能性が高いのに。それでも、新しい考えを受け入れようとしないことが、心苦しいと。

 

本当に驚いた。予算が足りないとか、技術的に難しいとかではなく、現場の教員の意識が障害だとは。現場の一教員という末端から見て、教育長は何でもできる権力を握っていると思っていたが、最終的に現場に向き合う教員の責任は重いと思った。

 

別な改革者の人も「いくら素晴らしいテクノロジーを入れても、それを使える教員が素晴らしくないと、結局どうしようもない。」と言っていて、現職の教員として参加していてなんだか情けなくなった。

 

もちろん、何でも教育長の言った通りにするのが正しいとは思わないし、今回の教育長の考えに私が賛成なだけと言えばそうなのかもしれない。

でも、反対の理由が変化を嫌うからっていうのは、あまりにお粗末な気がする。

 

4.今すぐ自分ができることを行動し続けるのみ

現場の意識で改革が滞るということを知ると同時に、現場の意識を変えれば改革は進むとも感じた。結局、大切なのは自分が行動することしかない。

人を批判するのではなくその気持ちを想像し、例示と対話で考えをすり合わせ、子どもの未来のために行動に移す。自分の考えを発信する、良くないものは改めて、自分の信じるものを応援する、共に走る。この繰り返しでしか未来は創れない。

 

今回このイベントに参加して、今思い返しても、刺激に溢れた時間だった。

教育界の改革は一歩ずつ進んでいる。

自分にできることを、やろう。

#作戦6 「経産省」の掲げる教育改革の本気度合い

「控え目に言っても、経産省は本気だ」

今回は経産省の『経済産業省「未来の教室」と EdTech 研究会 第1次提言』についてみていきたいと思います。

 

経済産業省

http://www.meti.go.jp/press/2018/06/20180625003/20180625003-1.pdf

 

今回の提言では、

「50センチ革命×越境×試行錯誤」
「STEAM(S)×個別最適化」
「学びの生産性」

というキーワードのもと、産業界から教育界に対して、提言を行っています。

それぞれのキーワードをもとにまとめているため、内容も整理されており、とても分かりやすく構成されています。

 

初めに今後の社会の変化や未来に求められる教育の姿を述べ、諸外国の教育改革を引き合いに出しながら、日本の教育改革の方向性を公教育・民間教育・企業・入試改革など幅広い視野から検討しています。

 

また、提言の最後には謙遜しつつ、このように述べています。

そうしてまとめられたこの提言は、議論に参画した現役学生を含む多くの教育当事者達の、「未来の教室」に向けた問題意識と理想を束ねたラフ・スケッチである。そのため、内容には矛盾や重複もあり、文教行政や教育
現場における「常識的な言葉遣い」とは大きく異なる用語の使い方も多数ある中、そこをあえてそのままの姿で世に問うこととしたい。全国の教育現場やビジネスの現場、市民社会からの様々な反応を期待したい 

 と締めくくっています。

 

提言としてのラフスケッチであることを断り、文教行政や教育現場の「常識的な言葉遣い」とは大きく異なるがそこをあえてそのままで問いたい、と述べています。謙遜のように聞こえますが、これは挑戦状のようにも取れます。

 

私が提言を読んだ感覚では、教育界に明らかに新しい視点として、ビジネスやテクノロジーの感覚を入れて、社会の変化を強く意識していると感じました。

 

「学びの生産性」という言葉がそれを強く表していると思います。この言葉は、これまで教育界になかった感覚や言葉だからこそ、「常識的な言葉遣い」ではないと述べているけれど、

 

これは畑違いの経産省が教育に口を出してすみませんという謙遜ではなく、

見方が固まっている教育界へ新しい感覚をぶつけるという皮肉かとも取れます。

 

ここに経産省の本気を感じました。

この「学びの生産性」という言葉に対しては、いわゆる教育界からの否定的な反応が見受けられました。「学びと生産性は両立できるものではない。」「たとえ遠回りに見えても、それが学びの豊かさや広がりになる。」「地道に努力してこそ、学力は身につく。」何となくこれらの考えにも一理あるように見えます。しかし、その結果の今の教育界は明らかに行き詰っています。

 

2030年の教育界の姿は

今回の提言で経産省は、具体的に2030年にどのような教育が行われていてほしいかという、具体的な姿をイメージしています。

 

これが非常に分かりやすい。用いるテクノロジー。公教育と私教育と企業の連携。教員の在り方。教育課程の理想的なデザイン。

 

現場の声をワークショップで吸い上げて形にしたからこそ、絵に描いた餅ではなくリアルでイメージできる「未来の教室」の姿です。

 

そして、諸外国の教育政策についても触れています。アメリカやオランダや中国の先進的な取り組みを紹介しつつ、その課題を明らかにし、日本に合う形で取り入れるにはどうすれば良いのか論を展開しています。

 

実際に外国で実現していることからも、政策に説得力があり、各国の教育政策の良い所を取り入れることで、日本の未来の教室がつくられると感じます。

 

これまでの文科省の提言で、ここまで具体的に諸外国の教育政策を踏まえ、具体的な姿を語ったものがあったでしょうか。

 

少なくとも、時を同じくして文科省から公表された、「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会:文部科学省」では、体裁の良い整った考えは示されていますが、小難しいカタカナ語と難熟語ばかりの理想論で、具体性に欠ける印象があります。

現場目線で読むと、いつものお上からのお題目感が否めないものでした。

 

 

「未来の教室」の今後

今後は、この経産省の「未来の教室」プロジェクトが実証実験を行い、データを取りながら改革を進めていきます。

 

経産省が提示する新しい視点は、間違いなく教育界にとってプラスになると思います。テクノロジーの力で社会は大きく変わります。そのためには、やはり資本もマンパワーも必要です。改革には、経済という大きなうねりが必要な時なのではないでしょうか。

 

経産省が示した提言には、新しい未来の予感を感じさせるワクワクがありました。

僕たち現場も負けていられません。具体的に実装するのは私たちです。

 

未来の教室を、一緒につくりはじめましょう。

 

#作戦5 経産省が教育界への提言

経産省から教育界への提言」

・日本の教育への危機感

経済産業省「未来の教室」と EdTech 研究会が6月に第1次提言を発表しました。

経済産業省
「未来の教室」と EdTech 研究会
第1次提言

http://www.meti.go.jp/press/2018/06/20180625003/20180625003-1.pdf

教育を司る行政機関は、言わずもがな文科省です。

これまでの教育改革も、また歴史的に見ても、文科省(旧 文部省)が日本の教育の根幹をつくりました。

 

しかし、ここにきて経産省(つまりは経済界)から、教育に関しての提言が発表されたのです。その意味は、おそらく「日本の教育への危機感」だと思います。

 

私は官僚ではないので、予想でしかありませんが、他の省庁の仕事に提言する(口を出す)というのは、なかなかないことではないでしょうか。逆を言えば文科省が、意見は言ったとしても、国の経済や防衛や財政などへ提言を出すという話は聞いたことがありません。

 

 ・平成とは失われた20年と経済界の敗北

そこまで強い危機感を抱いた理由は何か。

twitterのTLを見て、思いつくことがありました。

バブル崩壊と失われた20年。そのダメージが結果として平成の象徴となってしまった感が否めません。 

経済界が感じている焦りは、平成という時代への敗北感、危機感。

もしくは新しい時代の巻き返しへの使命感。鼓動。かもしれません。

 

「教育を変えなければ日本の未来はない。」

 

それがこの提言につながったのではないでしょうか。

 

・平成の教育界の評価

ここまでの教育界だって、決して手を抜いていたわけではありません。そう信じたいですし、自分の身の回りを見てもそう思います。

 

OECDの国際学力調査では、子どもも成人も世界トップレベルと評価されているのは、これまでの教育界の努力の結果だと率直に思います。

kevin-t-a-h-r.hatenablog.com

 

 

しかし、経済界としては圧倒的な敗北。

 

このギャップをどう埋めるか。

 

もちろん経済界の敗北といっても、企業の時価総額という指標での話です。一面でしかありません。もちろん人材に敗因があるのか、企業の戦略に敗因があるのか、国の戦略に敗因があるのか、人口や国土の規模の話なのか、地理的要因なのか、国民性なのか、一概には言えません。

 

しかし、人材育成が大事な1ピースなことは疑いようのないことだと思います。

 

・マイナーチェンジとアップデート

私の考えでは、教育界は国際学力調査で子どもも大人も成果を出したのに、経済界として敗北している理由は、社会の構造の変化があると考えています。

 

つまり、教育界は「学力」をつけることを一番の目的として教育を行ってきたが、それが時代の変化で通用しなくなった。

 

戦後~1980年代は、国がカリキュラムを組み、教員は教科教育の指導法を磨き、塾や通信教育や早期教育などの受験産業が伸びてきた。

そして、それが日本の人口ボーナス期とも重なり、経済成長を牽引することができた。

 

でも、その成功モデルを引きずったままバブルが崩壊し、社会は痛みを伴いながらアップデートしていく中で、教育界は暗中模索のまま旧来の教育を続けてきた。

 

確かに、生活科、総合的な学習、道徳教育、外国語教育、ゆとり教育、人権教育、情報教育、国際理解教育、などなど全人的な教育を掲げて〇〇教育を次々に導入した。

 

しかし、マイナーチェンジは行えど、アップデートまでは出来なかった。

 

その結果、ゲームのルールが変わったことに気づかず、ゲームセットしていた。

いくら結果が出たと思っていても、勝負には負けている。

旧来の優秀な人材では、新しい社会を創ることは難しいことの、残酷な真実かもしれません。

これが双方のギャップの正体だと思います。

 

 

・ピンチはチャンス

 

でも、悲観することは全くないと思います。ピンチはチャンスです。

時を同じくして、文科省からも「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」が公開されました。新しい学習指導要領も告示され、社会の構造の変化を強く意識した内容となっています。

 

教育界も経済界も同じ未来を描くことで、教育改革が効果的に進み教育界もアップデートする。まさに教育再興戦略。そんな可能性を感じる二つの提言です。

 

次回は両者の内容について考えていきたいと思います。